志那祢様(しなねさま)

高知市一宮(いっく)には土佐神社があります。毎年8月24日、25日に、この土佐神社で行われる大祭を高知の人は親しみを込めて「志那祢様(しなねさま)」と呼びます。

この「志那祢様(しなねさま)」は、土佐三大祭りのひとつです。また、高知では、「夏は、輪抜け様に始まり、志那祢様(しなねさま)で終わる」とも言い、季節の移り変わりを感じるひとつの行事でもあります。

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この「志那祢様(しなねさま)」の「しなね」は、どういう意味なのでしょう?

新嘗祭(にいなめさい)の転語という説や、新稲(しいね)からとったという説、風の神である級長戸辺命(しなとべのみこと)からとった、つまり、「級長戸(しなと)の風」は、一切の罪やけがれを吹き払う風とされている、ということなので、稲に害するものを追い払い、豊作を祈る神事であるという説があるそうです。

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24日は、賑やかな屋台が出るのですが、25日には、御神幸(おなばれ)が行われます。これは日中にもかかわらず、松明をたくそうです。これは、昔、浦の内(現、須崎市)の鳴無(おとなし)神社への御神幸(おなばれ)の帰りに風雨が強くなり、磯伝いに帰る途中、狼に襲われたのだが、とっさの知恵で松の木を切り倒し火をつけて狼を追い払った古事に基づくとされているようですが、現在は、参詣人の家内安全、悪魔払のためといわれています。

また現在では、浦の内の鳴無神社まで御神幸(おなばれ)に行かず、一本松御旅所に徒歩で行き、御神幸(おなばれ)、御旅所の儀式を行い、これを「船上がりの御祝儀」と呼んでいるようです。

24日の夜店が連なる「志那祢様(しなねさま)」はとても賑やかですが、一度だけ見た25日の御神幸(おなばれ)は、一般の人の姿はあまりなく、荘厳な感じがしました。

志那祢様(しなねさま)について、おきゃくMLで話題にいたしましたところ、おきゃくメンバーの方々から、色々なRESを頂戴しましたので、ご紹介させていただきます。

建物歴の概要

■ 酔太 さん wrote... ※ 神の霊験 … 神のあらわすみしるし。また、人間の想像をこえた霊妙不可思議な現象。
※ 神階 … 1.朝廷が、祈願奉斎のために、神社に奉る位階。 品位と位階と勲位とがある。神階(しんかい)。かみこうぶり。2.神霊の座として設けられたものや場所。
※ 国幣 … 律令時代に国司が、一定の神社に奉る幣帛(へいはく{供物})。

「志那祢様(しなねさま)」の「しなね」は…?

■ jouさん wrote...

「しなねさま」の西には「秦(はた)」という地名があります。ここは「秦氏」が住んでいたので「秦」との名が残ったとの言いわれ、この「秦氏」は渡来人、朝鮮からの移民であり、稲荷を司る種族の先祖と言われています。

財閥の三井一族は、東京は墨田区の三囲(みめぐり)神社を報じています(三越屋上に三井神社があり、三囲神社勧請と記載)が、その敷地には豊穣神、大黒様、稲荷の三つの社が存在します。

ここに出てくる豊穣神とは、荒ぶる神として知られる素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別称で、収穫の時期には天照大神にその年に取れた作物を奉納する役を仰せつかっていました。

これぞまさに「新嘗祭」。また、豊穣神の名を象徴するかのように、彼が娶った妻の名は奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)という女性。いかにも稲作と関係がありそうな名前です。

ちなみに長宗我部氏の出自は秦で、秦氏の子孫とも言われています。

現在の帯屋町2丁目にある高知大神宮でも豊穣神が祀られ、境内にはきしくも同時に「よさこい稲荷」が存在します。

■ はら@埼玉さん wrote...

秦氏は秦の始皇帝の末裔で、新羅から日本に渡ってきた渡来人が祖先とされています。養蚕、機織、土木工事などの当時は日本に無かった高度な技術知識を利用して日本での殖産に成功した一族とされています。

土佐神社はそもそも京都の下鴨神社と同様に建角身を祀る神社だったと思いますから、これに秦氏が関わるとすれば、秦能俊が土佐に移り住んで以降のことでしょう。

秦能俊は、現在の幡多を荘園とした人物で、幡多の名も秦を起源とする説も有りますが定かではありません。

ちなみに長宗我部氏の出自に関係しているとの説もありますが、これは戦国大名が清和源氏や藤原氏の出自を偽ったのと同じで、疑わしいと思われます。

仮に志那祢様が秦氏と関わるとすれば、秦氏が土佐神社に多大な貢献があり、「秦祢(=祖先の魂を祀るの意)様=シナネ様」が一般化したという説も考えられなくも無いように思います。

神話の世界のお話になりますが、土佐神社と鳴無神社は孝昭天皇や孝霊天皇(一言主神)を祀る神社です。

古事記や日本書紀で云う神武天皇の東征の順路とされている所から、その起源は建国神話に基づいているのではないでしょうか。

そう考えると、神武天皇の二代後の天皇とされる孝昭天皇の別名は観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらのみこと)ですから、志那祢様というのもその名前の「しねの」の訛言とする説はこの辺りが出自じゃないかと思います。

個人的に志那祢様で面白いと思うのは、その神事がほぼ旧盆の時期に行われる点にあります。確かに実りの秋を向かえ、九月ごろに豊作祈願を行う祭りは他にも無いわけではありませんが、そういう祭りは通常、田植え前後に行うものだと思います。神社がお盆ではあまりシャレになりませんが、この点から志那祢様の催行時期には神仏習合の影響がうかがえます。

土佐神社の傍には三十番札所の善楽寺があったと思いますから、明治初年の神仏分離までは神社と寺で一宮を形成していたのでしょう。

片方でお寺が盆行事で忙しくやっているのを秋祭りや新嘗祭まで黙って見ていられなかったんじゃないでしょうか。ちなみに新嘗(にいなめ)祭は旧暦の十一月卯の日に行われるものですから、志那祢様の呼び名と関係が薄いかも知れません。

随分昔に見たもので記憶不確かですが、鳴無(おとなし)神社の大祭には「ぎょうじ(男児)」と「いたじょう(女児)」の子役が居て、祭りの中で神官による三三九度で結ばれるという儀式がありました。祭りは古くは、巫女により司られていたであろうことを再認識させてくれるものだったと思います。

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