旧町名案内標識

菜園場町の標識

高知市中心部(お城の周辺や、はりまや橋付近一帯)を歩いていると、五角形に棒がささった形をした標識を幾つも目にします。この標識は、横3.5キロ、縦1キロの長方形を市街地にすぽっと被せたエリアに点在しています。

お城の周辺や道路脇などにさりげなくちょこんと立っていますが、「そういえば見たことがある!」「帯屋町(おびやまち)あたりにあるあれ?」など、心あたりのある方も多いのではないでしょうか?

この標識は、市が設置した「旧町名案内標識」というものです。

江戸時代の町名と由来

本町の標識 現在の高知市中心部は、江戸時代、お城を中心として栄えた城下町でした。そのため、城下町づくりに深く関係した町名が、今でも幾つか残っています。例えば、「本町(ほんまち)」は、城下町を作る時、最初に出来た基本となる町筋であったことからこの名が付きました。(現在の市役所があるあたりが本町です)。また、路面電車の停留所名にもなっている「升形(ますがた。枡形とも書く)」は、城下町形成時、集まった兵士の数を図るために造られた四角形の広場が枡の形に似ていることに由来しています。

設置箇所は86箇所!

城下町歴史案内板 市では、このように昔の暮らしや歴史、文化を感じることが出来る町名を後世に伝えようと、この標識を設置したそうです。標識には、旧町名と、その町名の名前の由来が載っています。設置箇所は86箇所と意外とたくさんあります。(はりまや橋を中心にして、北は江ノ口川、南は鏡川、西は路面電車停留所の「上町五丁目(かみまちごちょうめ)」、東は「宝永町(ほうえいちょう)」を結んだ長方形で囲んだエリアにあります)

この標識以外にも、高知市内には城下町歴史案内板や、歴史の道案内といった、昔を伝える標識も設置されています。

「筋」と「通り」は昔のまま

真っ直ぐな道路 ところで、今ある中心部のまちは、昔のままではありません。正確には、原型が残っていないというべきでしょうか。なぜかというと、戦時中の空襲や昭和南海地震で、市街地が壊滅状態に陥ったためです。戦後、新たに市街地を作る際、江戸時代の城下町形成時のまち割りをベースに、新たなまちづくりは進められました。このため、江戸時代と、現在の市街地の地図を重ねてみると、建っている建物こそ違いますが、主要な道路や区画の場所は、ほとんどといってよい程一緒になります。特にそれが分かるのが、道路です。

普通、城下町というとL字型の鍵道や、袋小路が多いのですが、高知の城下町にはそういった道はほどんどなく、代わりに直線の道路がたくさんあります。なお、江戸時代に東西の道を筋と呼び、南北の道を通りと呼んだ名残が、今でも随所に残っています。町名だけではなく、筋や通りの名前にも目を向けてみると、おもしろいかもしれませんね。

メモ

【参考文献】

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