岩崎弥太郎

岩崎弥太郎像

1834年〜1885年
岩崎弥太郎は現在の三菱グループの創始者として知られた人物ですが、高知県安芸市出身である事は、意外にも知られていません。生誕の地には、今も生家が保存され、一般公開(無料)されています。

生い立ち

日本列島を形どった庭石 天保5年(1834年)、地下浪人岩崎弥次郎の長男として当時の安芸郡井ノ口村に生まれました。弥太郎はわずか10数歳で他人に漢詩を献じ、書を講じ、14歳の時に、13代土佐藩主であった山内豊熙(とよてる)に秀才を認められます。一方、幼い頃は、畑を荒らすかなりの“悪ガキ”だったそうです。
生家には、幼少の弥太郎が大志を膨らませたという、日本列島を形どった庭石が残っています。これをどういう思いで作り、眺めていたのでしょう。そして21歳の時(1854年)、彼は単身江戸へ遊学に出ました。

江戸で勉学に励んでいた弥太郎ですが、江戸へ出てわずか1年、酒席での喧嘩がもとで投獄された父親の事を知り、高知に帰ってきます。そして、父親の免罪を安芸郡奉行所に訴えます。しかし、その訴えは通らず「官は賄賂をもって成り、獄は愛憎によりて決す」と奉行所の門柱に落書きしたことにより弥太郎自身も投獄され、その後、村を追放されます。村を追放された弥太郎は、現在の高知市鴨田に住み、現在の高知市長浜で鶴田塾(少林塾)を開いていた吉田東洋のもとに入門し、才能を認められます。

岩崎弥太郎生家遠景 ちなみに、吉田東洋は安政元年(1854年)に不敬罪(主君をないがしろにしたとされる罪)により蟄居(ちっきょ)。翌2年後に開いたのが“少林塾(鶴田塾)”です。安政5年(1858年)の吉田東洋の政治復帰と共に、弥太郎は土佐藩に登用されることになります。そして、この頃から長崎へ視察に行き、海外事情を学び始めます。

慶応3年(1867年)、弥太郎は土佐藩の商社である土佐商会の長崎駐在員として長崎に赴任します。翌年には、土佐商会が大阪に移りますが、その後も、知恵と力のある弥太郎は土佐藩の代表者として手腕をふるったと言います。

三菱の商標の秘密

三菱マークの付いた蔵 明治維新後、土佐商会は「つくも商会」と名前を改めますが、明治4年(1872年)の廃藩置県に伴い、弥太郎は「つくも商会」の施設を譲り受け、「三菱商会」を創設します。この時に、三菱の商標(三菱マーク)が定められたそうです。見慣れたこの三菱マークは、岩崎家の紋である三蓋菱と土佐藩主山内家の三葉柏の紋を組みあわせたものだといわれています。元々、海援隊員でもあった弥太郎は海運業に力を入れ、「東洋の海上王」と呼ばれるまでに発展しますが、明治18年(1885年)、52歳の若さで亡くなりました。

弥太郎が育った家

岩崎弥太郎の生家 弥太郎の育った家は安芸駅から自転車で20分程度、辺り一面畑が広がるのどかな所にひっそりと建っています。土用竹の垣根に囲まれた、温かい雰囲気の家です。周囲の道が整備されておらず、車1台がやっと通れる位ですが、これが却って、当時の雰囲気を今に伝えている様な気がします。茅葺の屋根がその温かさをよりいっそう引き出しているのでしょうか。田舎のおばあちゃんの家、といった感じです。岩崎弥太郎は、この家で勉学に励み、大志を大きく膨らませていったのですね。

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