土居廓中と野村家

土居廓中の家並み

「土居廓中(どいかちゅう)」とは、安芸市土居地区に残る武家屋敷が並ぶまち並みのことです。古い伝統的な屋敷が安芸城跡を囲んで直線状的に並び、今もなお江戸の雰囲気を味わうことができる貴重な文化財です。

土居廓中の起源

天正13年(1585年)の春に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は四国を統一しますが、同年の5月に始まった豊臣秀吉の四国征討により、8月に長宗我部元親は、秀吉に降ります。その後、長宗我部による土佐一国の支配は約30年間続きましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、土佐に山内一豊が入国します。この時、一豊の家老として安芸城を任されたのが五藤為重(ごとうためしげ)という上士です。

ちなみに、土佐藩山内家の家臣は、上士(家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組)と下士(郷士・徒士・組外・足軽・奉公人)とに分けられ、この土佐藩独特の身分制度が幕末のマグマとなります。

為重の家臣は、役割に応じて安芸城の周りに屋敷を構えました。元和元年(1615年)、江戸幕府が下した一国一城令により安芸城が壊され、五藤家が安芸城跡横に屋敷を構えた後も、彼の家臣達はそのままの場所に住み続けました。これが、今の土居廓中となって残っています。

藩政時代は、身分制度が厳しく、農民や商人はこの一廓には簡単に入ってこられず、用事がある場合は、頬被りや鉢巻きは取って身だしなみを整えて入ってきたそうです。武士の居住まいを正した生活の名残りが、この廓中の何か神秘的で、厳かな雰囲気を作っているのかもしれませんね。

独特の建築様式

土居廓中を歩いていると、高知県独特の建築様式を伺うことができます。ほとんどの屋敷には、高知独特の強風多雨から土佐漆喰の壁を守るために「水切り瓦」を壁面に設けています。土と瓦で造られた「瓦の練塀」や、土用竹を利用した生垣も多く見られます。気象条件への対策だけではなく、武家の家として、敵の襲撃を防ぐための工夫が凝らされています。

野村家

現在、土居廓中には約40戸の屋敷が残っていますが、その中で最も古いものは1830年頃に建築されたと言われる「野村家」です。ここは、土居廓中の中で唯一、一般公開(無料)されている屋敷です。この屋敷にも、昔の知恵を垣間見ることができます。

まず大きな門をくぐると、玄関横にもう一つ門が構えてあります。これは「塀重門」といって、敵の襲撃を防ぐために設けられているそうです。そして玄関は三畳という狭さになっていますが、これは、いざという時の立ち回りが困難になるように、あえて狭く作られているそうです。

一方、生活面での知恵として、風通しが良くなるように、縁側が北南の両側に設けられています。この他にも、戸の開閉やささいな箇所等に「昔の人って頭が良い!」と感心します。実際に、確認されてみると面白いと思いますよ。特に、建築関係に興味のある方にはお勧めです。

受け継がれる伝統

土居廓中を訪問した時、たまたま野村家の方にお話を伺うことができました。当時の野村家についてお聞きすると、「野村家は本当によく五藤家に仕えたと聞いております。廓中内には様々な掟が存在していたということも聞きました。」とおっしゃっていました。野村家は、与力、騎馬として五藤家に仕えた上士の家臣ですが、一豊と共に五藤為重が高知にやって来た時に選ばれた、数少ない高知出身の武士の一人だったそうです。

野村家の方は代々、ご先祖様が残した備品や書物を大切に保存していらっしゃいます。見せていただいた物の中には、ご先祖様のお墓の位置が記されている地図、家系図など細かく手書きで記されているものがありました。

公開されている野村家の手入れは、野村家の方が毎日されているようで、隅々まで掃除が行き届いています。私が訪問したときも丁寧に草刈をしておられました。「せっかくこんな素晴らしいお家を残してもらったのだから、きちんと管理して受け継いでいきたい。」と、おっしゃっていたのが印象的でした。

廓中が残っているのは、伝統を受け継いでいこうとする地元の方々の熱い思いがあるからです。土居廓中では、家を思い、先祖を偲ぶ温かい雰囲気を感じることができます。皆さん、高知の歴史が詰まっている土居廓中に、是非、足を運んでみてください。

メモ

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